山田拓美

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山田拓美はラーメン二郎の創業者で本店(三田店)の店長。慶應義塾の特選塾員でもある。

山田拓美の年齢。来年は喜寿

まずは山田さんのお目出たいニュースから。ラーメン二郎の総帥の山田拓美さんは2020年に喜寿(77歳)になります。2018年2月、慶應義塾の食文化への貢献が評価され、特選塾員に選ばれた山田さんに対して、喜寿を盛大にお祝いするイベントが企画されている模様です。いかに、山田さんが慶応大生、慶応OBの方々に愛されているのかが伝わってくるエピソードですね。

なお、とんでもない話なのですが、ネットで検索すると、山田拓美 死亡 という検索キーワードがあることがわかります。もちろん嘘です。総帥はご高齢なのでそういうデマが出るのでしょうが、実際にはお元気で頑張っていらっしゃいます。

山田拓美さん ラーメン二郎の総帥

出典:食べログ

山田拓美とラーメン二郎の歴史

山田拓美さんがラーメン二郎を創業したのは1968年(昭和43年)のこと。今から50年以上も前のことです。
二郎創業の地は、現在の三田ではなく東横線の都立大学駅の近くでした。創業当時の店名はラーメン二郎ではなくラーメン次郎でした。

都立大にあった次郎の店舗の跡地sirabee161016Zi (6)_compressed
出典:ニュースサイトしらべぇ

なぜ、開業当時の店名が次郎だったのか? 山田さんが創業した当時、エースコック社から発売されていたインスタントラーメンに太郎という人気商品があったのですが、そのネーミングにインスパイアされて付けた店名・・・というエピソードが有名です。
まあ、インスパイアと言えば聞こえはいいのですが、要するに太郎だとエースコック社の名前そのままでマズイと思って、次郎にしたというのが真相だと言われています。

エースコック社の太郎のパッケージエースコックの太郎
出典:Mr.NAOのコミュニケーションシアター

さて、ラーメン店を開業したことはしたのですが、当時の山田さんは和食料理の経験しかなく、ラーメン調理の経験は完全にゼロでした。それでも「ラーメンぐらいなら何とかなるだろう・・・」と楽観的にラーメン店を開業してしまったようです。

その結果、開業当初の半年間の売り上げは1日たった20杯以下という少なさ。1日18杯とかザラだったそうです。スタートは大失敗でした。そのため、創業当時、あまりに流行っていない次郎を見ていた近所の中華料理の店長が、自分の中華料理店で修業するようにアドバイスしてくれたそうです。

1日でわずか18杯じゃ潰れる危険性が高かったので、山田さんはこの中華料理の店長のアドバイスを素直に受け入れて、3か月間、その中華料理店でしっかり修行されたそうです。ここでラーメン作りの基本を学ばれたんですね。

さらに、次郎に来ていた北海道出身の客から受けた助言を参考にして、今の二郎につながる独自の味に変えていったようです。確かに、今の二郎のスープの脂の多さ、麺の太さは、北海道のラーメンに通じるものがあるように思います。もしも、二郎のラーメンを味噌ダレで食べたら、純連などの札幌の味噌ラーメンに通じる部分があるような気もします。
このように改良されていった次郎のラーメンは、次第に客に受け入れられて繁盛していきました。

しかし、1970年代前半、目黒区による呑川の河川改修(暗渠・緑道化)工事のため、残念ながら都立大学の次郎の店舗は閉めることになってしまいます。
このとき、常連客だった慶應義塾大学の学生から港区三田・三田通りの元洋食屋の空き店舗があることを知って、三田で次郎の営業を再開することに決めたということです。この場所は、慶応大学三田キャンパス東南で慶應仲通りに通じている交差点の脇にあって、最寄りの駅(田町とや三田)と三田キャンパス正門との導線上にあって、人通りも多い好立地だったんですね。

さて、いよいよ三田への店舗移転を準備していた最中に、次郎が二郎に変わる事件が起きます。
山田さんが看板製作を依頼したペンキ屋さんが新店舗の看板に、正しい店名の「次郎」を書くべきところ、誤った店名の「二郎」と書いてしまったのです。

次郎という都立大学の旧店舗名は三田では無名だったこともあったんでしょうね。
山田さんは書き間違えた二郎を旧店舗名の次郎に書き直すこともなく、そのまま「ラーメン二郎」という新表記で、三田でラーメン店を再開することになりました。つまり、今のラーメン二郎という表記はこのペンキ屋が決めた決めたということになります(笑)

現在のラーメン二郎三田本店の看板

出典:ラーメン二郎の看板について考察する

三田に移転後、ラーメンのボリュームと脂っこく塩辛い独特な味付け、山田さんの人柄が学生に受け入れられたことから店は爆発的に繁盛しました。繁盛というかブームになったと言った方がいいかもしれませんね。
筆者も1982年には三田の二郎本店に食べに行きました。強力なインパクトがありましたね。当時から他にはない独特なラーメンでした。

この1980~1990年代、まだグルメがメディアのネタになるのが少なかったタイミングで、二郎は書籍にも取り上げられています。1986年4月発売の山本益博『東京味のグランプリ〈1986〉』に掲載されたのです。
東京味のグランプリといえば、寿司で有名な数寄屋橋の次郎を掲載したり、グルメガイドとしては当時は最高の評価を得ていた本だと思います。そこに掲載されただけでも当時からラーメン二郎の人気・実力がいかに凄かったのか、わかりますね。

また、同じ1986年には週刊少年マガジンに掲載中の[ミスター味っ子]の扉絵には、二郎のメニューのぶたダブルが描かれています。[ミスター味っ子]作者の寺沢大介さんは慶應大学出身でラーメンの帝王というフレーズを使った紹介文を添えています。さらに、1996年4月20日発売の[島耕作の優雅な1日]では、作者の弘兼憲史がラーメン二郎について取材した内容をイラスト入りでレポートしています。

三田への移転後、長い年月を重ねつつ、二郎は日本を代表するラーメン店になっていったのです。

ところが、1990年代に三田通りの拡幅計画に伴い、二郎は立ち退きの対象になることがわかります。このときばかりは山田さんも落胆してしまったんでしょうか?
このタイミングで、二郎の三田本店を閉じることを真剣に考えられたようですね。

しかし、膨大な人数を誇る慶応の学生を始めとする常連客は二郎の継続を望み、地元の慶應義塾大学の学生有志は当時改装が予定されていた慶應義塾大学西校舎学生食堂へ誘致の署名活動を1990年代前半に行ったほど、二郎の継続を支持していました。さすがに、「慶応義塾大学の中にある食堂に、塾生以外の外部の客で長蛇の行列ができることは許可できない」という大学側の判断で学生食堂にはならず、三田通りの店舗は1996年2月末に閉店してしまいます。ラーメン界では結構、大きなニュースになりました。

それでも、熱狂的なマニアからの支持が強いため、1996年6月から桜田通り沿い(慶應義塾大学正門近く)に移転し、営業を再開しました。これが今も営業中の二郎の三田本店です。

ラーメン二郎は、その後もファンの数を増やし、弟子の店も増えていきました。
そこで、2003年にはラーメン二郎のブランドをしっかり守るため、遂に商標登録がなされました。権利者はもちろん山田拓美さんご本人。区分は「ラーメンを主とする飲食物の提供」です。
その後、2009年には、イギリスの高級紙ガーディアンで「世界で食べるべき50の料理」に選ばれています。今でも、ラーメン二郎は、他のラーメン店とは別格の人気とブランドがあり、日本のラーメンシーンを語る際は絶対に外せない存在になっています。

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